昨日の記事を書いてしまってから。
「あ、そうか、書き言葉は内省言語なんだ」と思いついた。
私にとって「書く」と「考える」は密接に結び付いていて、「書き言葉」は「内省のための言語」という性格がとても強い。
だから、書き言葉で「外」へ向かおうとすると、どうしたらいいのかがよくわからなくなるんだろう。
私は「大阪弁話者」なので、「話し言葉」と「書き言葉」の間にかなりしっかりした区別がある。
「話すように書く」なんてことが、不可能だからだ。
日本語の書き言葉は、「方言」を書き写すためにできていない。もちろん、「なんでやねん」とか「アホちゃうか」とか、部分的に書くことは可能だけれども、そこにはアクセントやイントネーションは表示されないし、すべてを忠実に写すことは不可能だ。
実際のところ、「標準語」をきちんとしゃべっている人というのはニュースを読むときのアナウンサーぐらいなものなので、別に大阪弁話者じゃなくても、「話し言葉」と「書き言葉」の間には差異がある。
私は小さい頃から本が好きだったこともあって、「しゃべり」は「大阪弁」なのに、「頭の中」は「書き言葉」で「標準語に近いもの」なのである。
「話し言葉=大阪弁=目の前にいる相手とのコミュニケーションのための言語」
「書き言葉=標準語=頭の中で色々考えるための言語」
という棲み分けが、かなりしっかりとできてしまっているような気がする。
「気がする」というのは、他の人の「頭の中の言語」がどうなってるかなんて知らないせいだけど。
みんなそうなのか、私は「普通以上にそう」なのか、判断する基準がない。
でもとりあえず、私にとって「書き言葉」は「内省言語」の色合いが強いのは確かで、だから「書き言葉でしゃべろうとする」となんかぎくしゃくしてしまうんだろう。
別に、だからって私が「おしゃべり」でないということは全然なく、むしろ「よくしゃべる」方だと思うので、「書き言葉」しか使えない、「人とコミュニケーションできない」というわけではない(と思う。もしかしたらできてない可能性もなくはないが)。
「書く」ときと「話す」ときとでは、同じ「言葉を扱う」のでも、脳の使ってる部位が違うのかもなぁ。
で、ちょっと思ったんだけど。
今、「討論する能力」とか「自分の意見をしっかり述べる能力」とかいうことを育てなければいけない、ということが言われて、学校教育の中でも「ディベートをやる」とか、「読み書き」中心ではなくて「オラル・コミュニケーション」に力を入れましょう、みたいになっているでしょう。
英語の授業も英語でやるようにしよう、とか。
ま、外国語の場合「発音」悪いと通じないし、リスニング能力もないと確かに会話できないから、「読み書き」だけでなく「話す聞く」をもっとやりましょう、というのは仕方ないかな、とも思うんだけど、「日本語」の授業で「話す聞く」に重点を置くのってどうなんだろう。
「討論する」とか「自分の意見を他人にしっかり伝えることができる」とかいう能力を鍛えようと思ったら、まず「自分の考えをしっかりまとめることができる」という能力がないとダメでしょ?
それって、「書き言葉」の分野じゃないんだろうか。
もちろん、読み書きのできない人が「何も考えてない」わけではないし、字を知らなくても自分の意見を整然と述べることはできるのかもしれないんだけど、でも、「考えをまとめ」たり「客観視する」のに、「書く」はすごく効果があると思うんだな。
考えたことを「人前でちゃんとしゃべれるか」っていうのは、ある意味「度胸の問題」とか「場慣れの問題」だったりもして、ただの「日常会話」でない「口頭での議論だの折衝だの」をするためには、そもまず「自分の考え」ってものがないと無理だ。
自分の考えをわかりやすく相手に伝えられるようにするには、まず「自分の考えを言葉にする」が必要で、そのためには「しゃべる訓練をする」よりも「書く訓練をする」方が重要なんじゃないのかなぁ。
学校って、意外に「書く」訓練ってしなくて、「作文」や「感想文」はほとんど「道徳教育」だし、「ちゃんと話せない」のは「ちゃんと考える」をおろそかにしているだけだからじゃないかと、思ったりしました。
ことば
2 Comments
私は、書くことが苦手、サッパリでした
返信削除コレが二十歳頃まで続き
レポートなどでは常に困りまくり。。。
ある時、学校最寄り駅の傍らにある本屋で
時間つぶししていましたら
そのあたりの古代に関する本を手に取り
何故か、買ってしまったカッパブックスの
��飛鳥王朝の悲劇」という本
けど、内容も登場人物もややこしく・・・
学校で習うのは蘇我の三代とかだけなのに
その親戚や聞いたコトノナイ祖先までもが登場し
天皇の皇子時代の名前も飛び交い
宝塚じゃあるまいに、同じ人物に名前がいくつもネ
時代もイメージできないし
社会情勢もさっぱり
……取り付くシマもない状況
けど、歴史家じゃないという著者の
ロマンチックな文体になんとなく惹かれて
三度読み返してはじめて、つかめました
その後、思ったとおりに書くということが
急に可能になり、残りの学生時代を
有意義に過ごすことができました
私事ばかり書き連ねて恐縮なのですが
きっかけというか縁だったというか……
同じ頃、戯曲を読む必要が出てきた際にも
この時についた力がサポートしてくれたことを
ヒシヒシと感じておりました
いろんなチャンスが与えられると
各人にあった形で
こうした機会も得られるんだろうなと思います
��Cat's oh!様
返信削除そんな難しい本を三度も読み直すなんてすごいですね。
よほど何か心に響くものがあったんでしょうか。
「それがきっかけで」なんて言ってもらって、著者の方も作家冥利につきますね。
私は自分が子どもの頃から読むのも書くのも大好きだったので、「どうしたら書けるようになるか」とか「どうしたら本好きになるか」ということが実はよくわかりません(^^;)
どうしてみんな好きじゃないんだろう……と思ってしまうぐらいで(笑)。
逆に運動は小さい頃から苦手で下手くそでコンプレックスがあったので、「どうしてみんな体育なんか好きなの!?」と思ってました。
そーゆーのは体質というか個性というか、たとえば親が必死に本好きにしようとしたり、スポーツをやらせようとしても、「合わない」ってことはあるよなぁ、と思います。
でも何かのきっかけで突然開眼してしまうことも確かにありますよね。
私もヨガを始めてやっと「体の使い方」がわかったのか、40近くなってやっと「逆上がり」ができるようになったりしました。
学校での「書く勉強」というのは、「優等生っぽく書く」とか「先生に気に入られるように書く」とかいうバイアスがどうしてもかかってしまうので、「思ってもいないことを書く」練習になっているのかもしれませんよね、ある意味。
だから、「思っていることを書く」「自分の考えていることを書く」という機会は、学校では意外にないのかもしれません。
「こんなふうに書いてもいいんだ」っていうのがあると、楽になるのかも。
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