この本の最初は『広告批評』2006年12月号掲載分で、ネタは「いじめ自殺予告」と「履修単位不足問題」。

ああ、あったねぇ、そんなこと。

文部省……じゃなくて文科省に「自殺するぞ!」という予告が来たんだった。

最近ちょっと、「いじめ自殺」のニュースを聞いていないような気がするけれど、どうなんだろう。金融危機や自民党総裁選みたいなニュースの陰に隠れてしまってるだけなんだろうか。

橋本さんも書いているけど、「いじめ」そのものはきっとなくならないんだろうな。

うちの息子の隣のクラスでも、いじめがきっかけで学級崩壊になって、担任の先生がしばらく学校に来られなくなったとか聞いたし。

「一番簡単な防止策は、学校で先生がみんなに説教することだと思う――いじめが発覚した段階で」と橋本さんは書く。(P6)

この文章だけ読むと、なんか「そんなんあたりまえちゃうの?」って思っちゃうけど、橋本さんの意見の肝心なところは「みんなに」っていうところなんだ。

「いじめ」の中心的な加害者だけ別室に呼んで、「おまえ、なんでそんなことするんだ」とか、「やめとけよ」って言うんじゃなくて、「一般論として、『○○をいじめるな!そんな恥ずかしいことするな!』と説教する」

子どもっていうのは法的に責任が負えないってことになっていて、「教えないとわからない」んだから、「加害者」として罰を与えても解決にならない。

多く、「見て見ぬふり」のクラスメート達や、同調する子達もからんでの「いじめ」になっているわけだし。

「加害者」だった子が、一夜明けたら「被害者」の立場になっているってことだってある。

「そんな恥ずかしいことするな!」っていう言い方がまた、重要だなと思うんだけど。

大勢が寄ってたかって一人を攻撃するとか、自分より弱い者に対して力を振り回すとかいうことは「恥ずかしいことだ」という概念。

こういうこと、最近言わなくなったな、って気がする。

「みんな仲良く」とか、「誰にでもいいところはあるから、認め合いましょう」とか、それは間違ってはいないんだけど、40人とか人間がいたら、その中にはやっぱり「相性が悪い」とか「どうしても好きになれない」とかいう相手が出てくるものだよね。

そこで、「クラスメートなんだから仲良くしなきゃいけない」というアプローチをしても、気に入らないものは気に入らないし、学校の「クラス」なんて、「何かを一緒にやりとげる明確な目標」があるわけでもない。野球のチームとか、目標が明確だと、たとえ性格が気に入らなくても、「一緒に力を合わせないと勝てない」ってことがあるけど、「クラス」ってそーゆーのがないんだもん。

それどころか、「なんでこんなつまんない勉強しなきゃいけないんだ?」っていう、ネガティブな、やる気をそぐ考えの方が支配的だったりして。

だから、ただ「仲良くしましょう」と言ったって、あんまり効果がないと思う。

それよりもやっぱり、「それは恥ずかしいことだ」とか「卑怯だ」ということを教えるべきだろう。

橋本さんも書いているとおり、「別に、『いじめ』に遭うのは、子供の時だけじゃないから――」


あと、「履修単位不足問題」。

これ、覚えてます?

進学校で、受験に必要じゃない世界史とかを教えないで、その分「受験勉強」に当ててたって話。

実は教えてなかったってことが発覚して、「卒業までに何時間も補習しなくちゃいけない」とかって大騒動になってた。

あの子達は、ホントに何時間も補習を受けて卒業していったんだろうか。

そして去年とか今年の高校生は、受験には必要ない科目でもちゃんと教えてもらってるんだろうか。

こーゆー問題って、その時は大騒動になるけど、すぐ忘れられちゃって、「その後の検証」っていうのはないまんまだからな。

本当は、ただ「補習をします」とか、「これからはちゃんとやります」だけじゃなくて、「高校では何をどこまで教えるべきか?」「大学に入る人間は、何をどこまで勉強しておくべきか?」っていう根本のところを議論しなくちゃいけないんだろうと思うし。

今、高校では世界史が必修で、日本史が必修ではないらしい。

で、進学校では必修のはずの世界史も教えないですませていた。

「進学校」なんだから、その高校生達はきっと「いい大学」に入って、たとえば官僚になったり、大企業に入ったり、「社会の中枢」を担う可能性が高いはずだろう。

別に、日本国民全員が日本史や世界史をことこまかに勉強して「知っておく」必要もないと思うけど、「社会の中枢」で「世の中を動かしていく立場」にある人たちが、日本や世界の「これまで」をろくに知らないのは、やばいんじゃないのかなぁ。

エリートこそ、そーゆーことを知っといてくれよ、って思うけれども。

 
「『日本のことをちゃんと教えない方が、いい加減な愛国心を養いやすいのかな?』なんてことも考える――半分いやみも入ってるけど」(P8)

これはおおいにありえる話かも(笑)。

 
この本の第二章のタイトルは「学校教育が『方向』を失っていることについて」。

そして第二章の最後の文章は、「この『乱れた天下』を統一するのは、国家ではなく、基礎学習を担当する現場の教師だけのはずだ」。(P37)

そうだよねぇ。

だから、現場の教師の質を上げることとか、現場の教師がじっくり子どもと向き合える環境を作るっっていうのが、国のやることなんだと思うんだけど、教育予算は全然増えそうにないよなぁ……。