ドストエフスキーにはまって数ケ月。
『カラマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫での再読)、『罪と罰』、『地下室の手記』、『悪霊』(やはり再読)、『白痴』と来て、ついに『未成年』!
これで主要な長編5つを読破することになります。

うふふ。

新潮文庫版の『未成年』は長らく(?)絶版であったようで、古典新訳文庫での『カラマーゾフ』の成功にあやかって今般復刊されたのだと思うのだけど。

これ、面白いよ。

なんで今まで復刊されなかったのか不思議なくらい。
『白痴』より全然読みやすいもん。
今、上巻の3分の2ぐらいまで読んだところで、本当はせめて上巻を全部読んでからとりあえずの感想を書こうと思ってたんだけど、そこまで待ちきれない(笑)。


『未成年』は、父と子の物語
他の長編とは違って、息子アルカージイの一人称で書かれている。

この、アルカージイ君が実にまったく「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」の持ち主で、いかにも「青二才」。読んでいて気恥ずかしくなるところも多々あるんだけど、でもだからこそ「わかるなぁ」ってとこも多くて。
青年ってこうだよなぁ。
こうじゃなくちゃ青年じゃないよなぁ、っていう気さえする。

過剰な自意識と、傷つきやすい心。頭の中でさんざん空想を積み上げて、「俺はひとかどのものだ!」って自負しながら、現実の壁にはじき返されては羞恥で頬を真っ赤にする。

周囲からは滑稽な、「ちょっと頭がおかしいのよ」とさえ見られてしまって。

なんか、わかるわ~。

ドストエフスキーってやっぱ、人物造型がすごいうまいよね。

この『未成年』は『カラマーゾフ』の前の作品で、その時ドストエフスキーはもう50代。それでこんなふうに一人称で「青年」(アルカージイは20歳そこそこ)を描けるのよねぇ。

まぁ、作家たるもの、「自分」しか描けなくちゃどうしようもないですけれども……。


アルカージイは、地主ヴェルシーロフの私生児で、戸籍上はヴェルシーロフの家僕ドルゴルーキーの息子ということになっている。

戸籍上はドルゴルーキーの妻であるソーフィヤがヴェルシーロフと事実婚のような関係になっていて、その二人の間に生まれたのがアルカージイなのだ。

アルカージイはよそへ預けられて育って、父とも母とも数回しか会ったことがなかった。
「私生児である」ということが彼にはひどく重いくびきで、そのためにいじめられたこともあり、実の父ヴェルシーロフに対して非常に複雑で強烈な、愛憎半ばした想いを抱いている。
アルカージイの名字はドルゴルーキーだけれども、周囲の人は彼がヴェルシーロフの息子だということを知っている。

ロシアでは、名前の後に「父称」が入るのが習いで、マカール・ドルゴルーキーの息子であるアルカージイは「アルカージイ・マカーロヴィチ」なんだけれども、彼をアンドレイ・ヴェルシーロフの息子と知る人は、うっかり「アルカージイ・アンドレーヴィチ」と呼んでしまったりする。

周囲の人は、アルカージイがことさら「私生児」であることを吹聴したり、ヴェルシーロフに対して敵対的な態度を取ったりすることをいさめたりするのだけど(「あんたなんか、靴屋の弟子にやられなかっただけでありがたいと思わなきゃいけないのよ!」と言うおばさんもいる)、でもそんなふうに、名前だけでもいちいち「本当はヴェルシーロフの子どもなんだ」ってことを意識させられるんだから、彼が非常に屈折した心理を抱くようになるのは無理のないことと思う。

アルカージイは、こんなふうに言う。

「わたしはヴェルシーロフの貴族の称号もいらないし、自分の生まれについて彼を許すことができないのでもない、わたしが生まれてからこれまで片時も忘れずに望んだのはヴェルシーロフそのものなのだ、彼の人間そのものなのだ、父親なのだ」(上巻P287-288)

「父親」を求める「息子」。

思えば、『罪と罰』のラスコーリニコフも『悪霊』のスタヴローギンも、父親はすでに死んでいる。出てくるのは母親ばかり。
『白痴』のムイシュキン公爵も、天涯孤独の身だった。
「父殺し」の『カラマーゾフの兄弟』の前に、「父を求める息子」の物語が書かれているのって、何かひどく象徴的なことのような気がする。


名前を覚えるのと、人物関係を頭に入れるのに苦労するものの、文章自体は読みやすい。

訳者の工藤精一郎さんはつい先頃、亡くなられている。
工藤さんは、学生時代に読んで大いに感動した新潮文庫版『戦争と平和』の訳者でもある。
その訳業に感謝し、謹んで冥福をお祈りいたします。