昨日の続きです。

本居宣長という人は、そもそも歌を詠みたかった人らしい。
晩年には、桜の歌ばっかり200首以上も詠んだのだとか。
しかし彼の歌は評価されなかった。
彼の歌は、彼の「心の動き」「感情」に即した「生の声」で、そーゆー歌の評価は当時低かったらしい。
賀茂真淵には「万葉ぶりで詠めないんだったらやめちまえ、下手くそ!」というようなひどいことを言われている。

「ケータイ小説なんか文学じゃない!」という「偉い人」みたいなもんだろうか、賀茂真淵。

「その筋の権威」には認められなくても、本居宣長はやっぱり「自分の歌」が詠みたいと思ってる。
それで『源氏物語』の中に、自分の求めるような「生の声の表出としての歌」を見つけて、『源氏物語』が成り立つ土壌、ルーツを求めて『古事記』に行った。

本居宣長のもっとも有名な著作はきっと『古事記伝』。

江戸時代に、『古事記』はそんなにも価値を認められていなかったらしい。
「正史」として編まれた『日本書紀』の方が正統でまともでちゃんとしてて、『古事記』の方は「偽書」とする説もあったのだとか。

だから、『古事記伝』を書いた本居宣長は『古事記』の価値を再発見した人で、日本の古代、「やまとごころ」を重要視した「国学者」ということになるのだけど。

橋本さんは、宣長が『日本書紀』ではなく『古事記』を選んだのは、ずばり「『古事記』の方が面白かったから」だと言っている。
「(『古事記』の方が)記述されるもの、登場人物が躍動している」
「本居宣長の言うところは、『人のあり方のリアリティ=躍動感を前提にしないで、歴史などはない』なのである」

宣長は、古事記の中の「神代の伝説はみな実(まことの)事」と言って、上田秋成などに「史実に対する検証が足りない。そんなの学問じゃない」とクレームをつけられたらしい。

「学問じゃない」と言われれば、宣長は「だって学問じゃないもん」と言うだろう。
宣長の職業はあくまでもお医者さんで、学問は自分の内的欲求に従ってやってるだけだから。
「だってこっちの方が面白いもん!ドラマチックでダイナミックでエモーショナルだから!!」

いいなぁ。
本居宣長、いい人だ(笑)。
『古事記』は、史実に照らし合わせれば虚構かもしれない。
でも、「事実としてのリアリティ」よりも、「人のあり方のリアリティ」の方が大事なのだ。
うんうん、私もそう思うよ、宣長さん。
重箱の隅をつつくようなリアリティなんかくそくらえだよねぇ。嘘八百の中にある真実が尊いんじゃないの。

と、宣長さんと意気投合したところで。
『古事記』(というか神代の伝説)について、橋本さんが面白い指摘をなさっている。
曰く。
「日本神話で、神は『人』を創らない――生まない。(中略)『人』は、神によって生み出されることはなく、いつの間にか日本に存在している」

なるほど、そう言われてみれば。
イザナギ・イザナミは「国生みの神」。
国を生んで、さらに色々な神様を生んで、でも「人」は生まない。
日本には八百万の神様がいるはずだけど、たぶんその中に「人」を創った神様はいない。

どこから来たんだ、日本人。

日本人はいつの間にか日本に存在していて、そこに「天孫」である天皇が降臨して、天皇と日本人の間には血のつながりとかはない。
「国の始まり」と「皇室の始まり」だけがあって、「日本人のはじまり」が語られない日本の神話。

まぁ、「皇室の統治の正当性」を語るために神話が作られたのでしょうから、日本人一般がどこから生まれようが、そんな下々のことはどーでもいいのかもしれません。
なんせ向こうは「神様」で、「神様」が統治してやろうって言うんですから、下界の民は「へぇ、それはどうもありがたいことで」と言うしかないのでしょう。

日本という国に住んでいる以上は、「その国を生んだ神様」の裔である天皇を敬い、支配されるのは当たり前。
「国の統治」なんて下々にはめんどくさいものですから、神様がやってくれるんならまぁねぇ。
でもその神様は「国の親」ではあっても「人の親」ではない。神様は「自然環境」で、人間はそこに住まわせてもらっているだけ。神様と人の間に、直接的なつながりがあるわけじゃないのだ。

なんか、「支配階級」は「支配階級」で、「下々」とは断絶してるっていうの、そもそもの始めがそうだったからなのかな、という気がしますね。
「お上(かみ)」は「お上」で勝手にやっていて、「下々」は「下々」でまた勝手にやってる、みたいな。
「上」と「神」は同じ音だしな。

神様に関する話は本書の中でたびたび言及されて、第8章のタイトルはずばり「日本人の神」。
第10章が「神と仏のいる国」。
8章では、
「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」
で有名な西行をモチーフに、「日本人にとっての神」が語られる。
ここのところはめちゃくちゃ面白くて、もう小林秀雄も本居宣長もどうでもよくなってしまうほど。

日本の神話には、「人」を生む神がいない。
「個である人に対応する存在としての神」がいない。
つまりは、一神教的な神様が、日本にはいないわけです。
それを橋本さんは、「空白として存在する神」というふうに表現されるのだけど。
「個である私に応えてくれるものは何もない」という「空白の発見」。
「空白」を発見すると、それに対応する「自己」は自動的に存在する。

「そこには“空白”がある。でも、誰も埋めてはくれない。その“空白”がいやなら、自分で自分なりに埋めるしかない」
「(西行の歌が人々に受け入れられるということは)日本人が『神』を必要としていない――そのことを容認してしまっているということである。『神』なるものになんとかしてもらうことは怠惰なことであり…(後略)」

うん。
すごく、わかる。
「なんで一神教的な“神様”が必要なんだろう」と思ってしまう私は、とっても日本人だ。
もちろん、「自分で自分なりに埋めるしかない」のは苦しくてせつないことだけど、「でもしょうがないな、自分が至らないせいなんだろうな」と思ってがんばっていく。それを、日本人は容認してしまっている。

日本人ってすごいやん。

この先誰かに、日本人の宗教観はめちゃくちゃだ、信仰がないなんてありえない、と言われることがあったら、「神様を必要とするなんて怠惰なことだよ」と答えよう。

橋本さんは西行のからみで「日本人の仏教」についても面白いことを書いてらっしゃるのだけど……それは本書を読んでくださいということで。

次回は『橋本治の恵み』です。