「そんなくだらん手で上がるな!」と子ども相手に本気で麻雀をしていた祖父のことを思い出したら、色々と書いておきたくなった。

父方の祖父は私が物心ついた時にはほとんど寝たきりの病人だったので、私にとって「おじいちゃん」と言えば母方の祖父だった。
よく家に遊びに来てくれたし、こちらからも行った。
運動会を見に来てくれて、一緒にお弁当を囲むのも母方の祖父と祖母だった。

祖父と祖母は事実婚だったので、名字が違った。
祖母はYという姓であり、母の旧姓も母の兄の姓もYなのに、祖父はM。
「なんで?」と母に聞いたら、「おじいちゃんが籍入れるの嫌がったんやって」と言っていた。
若い頃は相当の遊び人だったらしいので、まぁそーゆーこと(どーゆーこと?)なのかもしれない。
母の子どもの頃の話を聞いても、「おばあちゃんが紡績工場で一生懸命働いていて」という話は出てくるのだが、祖父が何をしていたのかは全然出てこない。
もしかして一緒に住んでなかったんだろうか……。

事実婚で生まれた子どもである母や叔父がそれで不利益を被ったかどうか知らないけれど、私が生まれた頃には祖父はちゃんと祖母と一緒に住んでいて、私たち孫もよく可愛がってくれる、普通の「おじいちゃん」だった。

高知出身ということもあってか、大酒飲み。
同じく酒飲みだった私の父を祖父の方が気に入って、母は父と結婚することになったらしい。

「おじいちゃん」の常で(?)眉毛が濃い。
ものすごーく長いのが一本、眉から飛び出ていたりする。
酒飲みの常で、お腹がぽっこり出ていた。
がはは、と豪快に笑い、来たと思ったらもう「帰ろか」というせわしない人であった。

私がごく小さい時には、神戸新聞の配達所をやっていて、新聞の仕分けをする広い土間で遊んだ記憶がある。
その後、長くアパートの住み込み管理人をやっていた。
若い時何をしてたか定かでない祖父だが、字は達筆で、帳簿もつけられたらしい。

まったく裕福ではなかったはずだが、家に来ると「また本買い」と言って私に1000円札をくれる人だった。
おかげで私は親から小遣いをもらわなくても、本とマンガの購入資金に困ることのない小・中学生時代を送る。

酒で肝臓を悪くして、最後は癌で亡くなった。
ちょうどロサンゼルスオリンピックの時で、お通夜だかお葬式だかで会館に集まっている時、そこのテレビで森末慎二さんが「トカチェフ、トカチェフ!」「10点10点10点!!」とやって金メダルを取った。

初めて会う祖父のお兄さんだか弟だかが祖父にホントにそっくりで、「え?おじいちゃん、死んでないやん!」と思うぐらいだった。

祖父の姓はMだったが、もともとはNという家の出で、子どもの頃にM家に養子に出されたらしい。
だから祖父の兄弟とか、その子どもである母のいとこの姓はN。
M家を継ぐ必要もなくなり、もともとの出身である高知にはずっと帰らなかった祖父に墓はなく、遺骨は大阪のお寺で供養されている。

私が結婚した時、子どもを産んだとき、祖母は「おじいさんが生きてたらどんなに喜んだやろな」と言っていた。

そうだったのかな……。