早々に文庫版の続き、3〜5巻を買って、もう少しで5巻を読み終わるところまできた。

単行本のⅡ巻にあたる「ハンニバル戦記」。言わずと知れたポエニ戦役、カルタゴとローマの戦い。稀代の名将ハンニバルと、それを迎え撃つスキピオの物語である。

カルタゴとか、スキピオ、という名前が出てきただけでもうわくわくしてしまう。
小説ではなく“史実に基づいた叙述”であるから、各々に魅力的な登場人物に、さほどセリフがあるわけではない。しかし、会戦の布陣の丁寧な描写、その背景たるローマ側・カルタゴ側の内情のわかりやすい解説、塩野さんの巧みな語り口によって、武将達の横顔がくっきりと浮かび上がってくる。

本当に、よくも2200年も昔の戦いが、これほど詳細に語れるものだと感心してしまう。
日本はまだ弥生時代。文字はおろか国家すら存在しないような時代だ。
その当時に、記録を残してくれた人達がいた幸い。
その記録を元に歴史書を書いてくれた人達がいた幸い。
印刷技術もない時代に、その書物を後世に伝えてくれた人達がいた幸い。

そして、それらの膨大な史料を読みやすい日本語で語ってくれる塩野さんがいる幸い。

参考文献のところに、ずらーっとイタリア語やら何やら(何語かすらわからない)の文献が並んでいるのを見て、それらに目を通すことなく楽しめるありがたみをひしひしと感じる。
Ⅰ巻の参考文献のところに書いてあった塩野さんのコメントも楽しかったけれど、今回もまたじーんと来てしまった。

「それらを読みはじめるや、歴史が立体的になるだけでなく、色彩をともない大気まで感じられるようになってくるのだ。この醍醐味を味わってしまったら最後、それを読んでくれる人にも伝えたいと思わない筆者はいないであろう」(5−ⅲ)

まったく、2200年も昔とは思えないほど鮮やかに、その風景が立ち上がってくる。
“救国の英雄”スキピオ・アフリカヌスが失脚する場面では、スキピオ本人に代わって「何故だーっ!!」と叫びだしたくなるぐらいであった。
まさかスキピオも、2000年も後の遠い異国の地に、自身の失脚を我がことのように嘆く人間がいるなどとは夢にも思わなかったろう。
イタリアでの戦いの記録をフェニキア語とギリシア語で銅板に刻ませたハンニバルにしても、自身の天才が2000年の後まで讃えられているとは思わなかったのではないか。
戦術の天才と謳われ、充分な自負もありながら、結果的に彼はスキピオに敗れ、祖国からも逐われる。報われない晩年を過ごしたハンニバルが、もし今の世の彼に対する称賛を知ったら、どう思うことだろう。自分の人生は無駄ではなかったと喜ぶだろうか。

否、“無駄だった”などとはそもそも思っていたはずがないか。
ハンニバルにしても、スキピオにしても。

人の一生は短いし、大抵の人間は歴史に名を残すこともなく泡のように消えていく。
けれど、2000年の時を越えていにしえの人々の生き様に触れる時、なにか、不思議に救われるような、慰められるような、深い感慨を覚える。
人として生まれてきたことに対するせつない愛おしさ、とでもいうような。

「われわれローマ人は、自分たちが神々の与えてくれたことを実現する存在にすぎないことを知っている。ゆえに、神々がローマ人に与えてくれたことが幸であろうと反対に不幸であろうと、それはわれわれの力による結果ではないことを知っている。だから、結果が良と出ても高慢にならず、悪と出ても絶望しないでいられるのだ」(スキピオの言葉:5−131)